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実績を積んでも
私が補聴器診療に携わってから35年を過ぎました。その間幾多の症例に出会い多くの問題を解決してきました。しかし、その詰んできた実績をもってしてもいかんともしがたい症例があります。補聴器診療は万能ではないというお話をしたいと思います。
適応外
まず最初から医学的に適応外の方がおられます。聞こえの改善に補聴器という手段は使えないという場合です。聴力が極端に悪いときにこれに該当します。難聴には感音難聴、伝音難聴とその両方の混合性難聴があります。感音難聴は例えるならマイク自体に問題があり、伝音難聴はマイク自体に問題はありませんがそこに何らかの原因で音が到達しにくい状態です。混合性難聴はその両方です。さて問題は感音難聴の方です。音に対する感度が落ちるのはもちろんのこと質まで低下してしてしまうのが問題です。聴力検査には、純音聴力検査と語音聴力検査の2種類がありますが、前者が音の感度の検査で後者は難聴に合わせた大きさの音量で何パーセントの語音が聞き取れるかを測定します。感音難聴は特に語音聴力の低下が著しいことがあり補聴器の装用を困難にしています。純音聴力が90dB以上または、純音聴力70dBでなおかつ語音聴力が50%以下の人工内耳の適応になる方は補聴器は積極的にお勧めしておりません。
適応外に適応すると
補聴は掛け算だというお話を良くします。感度が10分の1になったら10倍(実際はそれより小さい)のエネルギーの音、100分の1になったら100倍のエネルギーの音を聞かせます。感度が0になってしまうと何を掛けても0なので補聴器を装用しても聴こえません。感度が0に近づくと聞こえないか限りなく小さい音しか聞こえません。それともう一つは、感音難聴がある程度以上悪いと語音聴力の低下が著明になり、補聴しても言語の内容が不明瞭になります。さらにひどくなるとノイズとして認識され、音が苦痛でしかなくなります。以上のような結果になる可能性が高くなるのでお勧めしていないわけです。
必要性が低い
聴こえないことが問題でない人はいませんが人の立場や聞こえないことの程度によってかなり様相が異なってきます。一人暮らしで会話の機会が少ない方や家族との同居でもそんなに多くの会話を交わす必要のない方は、多少聴こえにくくてもそれなりに暮らしていけます。現役を退いた方にとって致命的な障害にならないのでこれが補聴器装用の妨げになります。補聴器装用には聴覚リハビリテーションが必須です。現役でコミュニケーションができないと経済的に自立が困難な方とはその取り組みの本気度が違ってきます。補聴器の装用開始時は、騒音がうるさい、自分の声の違和感、明瞭度の不足など様々な不愉快な症状が見られます。必要性を自覚していなければそのような状態を許容するのは困難になります。本人が必要性を自覚していないときは、私共は補聴器を強く勧めることは致しておりません。
認知症予防のため
世界で最もよく知られているランセット誌に2024年に難聴が認知症の重要なファクターと掲載されて間もなく世間に認知されました。そのせいでご家族が高齢の親を連れてこられるケースが増えてまいりました。しかし難聴が直接認知症を引き起こすものではありません。難聴がコミュニケーション障害を引き起こし、会話が億劫になり人を遠ざけてしまいそれが社会との接点を失わせてしまいます。社会との接点を失ってしまうと孤立してしまい、大脳に対する刺激が著しく減少してしまいます。これが認知症の重大なリスクとなるのです。難聴は引き金に過ぎず、直接原因は孤立による脳の刺激不足です。先ほどの例のように会話が少なく聴覚リハビリテーションがあまり進まないような場合には「本気で認知症予防として補聴器の装用を行うなら、補聴器装用して積極的に何らかのコミュニティに参加することをお勧めします。補聴器自体には、認知症予防効果はありません。」とお伝えするようにしています。ここで、積極的にあるいは家族に諭されてやろうとする方と断念する方に分かれます。つまり認知症のリスクはその方の生き方に依存すると考えた方がいいでしょう。

モチベーションが低い
高齢者は現役を引退された方が多いので仕事でコミュニケーションを行うことがなくなっています。ご自身では難聴があることにも気づかず過ごしておられますが、ご家族からは耳が遠いと思われているケースがあります。ご家族にとっていちいち聞き返しされたら面倒だし、認知症も心配ということで当院に連れてこられることが良くあります。しかし本人の身になって考えてあげてください。現在本人は何の不自由も感じておらず、静かに余生を送りたいと考えているところに急に「補聴器しろ。」と言われたらどういう気持ちになるか。補聴器はそんなに甘いものではないことはご説明いたしますので後ろ向きになられることが多く見受けられます。歳の寄り球に別に困っているわけでなし面倒なことに巻き込まれたくない。その気持ちよくわかります。とりあえず補聴器を装用しないデメリットをご説明してどうするかご家族とよくご相談いただくことにしています。たいていはそのままになるのですが、たまにご家族に説得されて戻ってこられることがあり、そういうケースでは案外うまくいくことが比較的多いようです。理由はともかく、やるという覚悟を決めることが一番大切だと思います。
特殊な聴力
聴力を語るには、音の3要素から説明しないといけないのですがこの場でそれをやると独自で調べてください。音の強さ(音圧)と周波数(1秒間の振動数)で表される純音で聴力検査を行います。125Hz~8000Hzまでの範囲で1オクターブ刻みで125, 250, 500, 1000, 2000, 4000, 8000Hz の7周波数の聴力を図ります。華麗性難聴の場合は、周波数が高くなるほど聴力低下が緩やかに大きくなる高音漸傾型の聴力になります。遺伝性の難聴で高音域が急激に低下する高音急墜型難聴があります。例えば125Hz~1000Hzまではほぼ正常で2000Hz以上が高度難聴あるいはスケールアウト(測定限界外)の聴力がその部類に当たります。低音域はほとんど補聴が不要で2000Hz以上が補聴できないというジレンマに陥ります。2000Hzや4000Hzにわずかに聴力が残っていればその部分を補聴するのですが効果は限定的です。語音聴力が50%以下で身体障碍者に該当する場合は、補聴器よりもむしろ人工内耳やEAS(人工内耳と補聴器のハイブリッド)を勧めます。
ほかの例としては、高音域より手音域が低下している低音障害型の聴力がかなり補聴が困難です。理論上は高音より低音側に利得を多くすればいいはずでそのようにするのですが不思議と低音が響いて逆に聞き取りの邪魔をするケースが非常に多いのです。低音が悪いといっても50dB以下の中等度の難聴が多く、高音域も一様に低下しているケースは特に問題なく補聴ができるのに高音域がそれより良好な場合逆に補聴が困難になります。補聴器を装用したり、大声であったりすると声が響いて明瞭度が低下し聞き取りが悪くなるので補聴器装用は残念ながらできません。当院でも補聴器購入に至った例はごく小少数で高音急墜型よりまれなケースになります。

難聴の脳
鼓膜を振動させた音は耳小骨を伝わって内耳に入ります。内耳の有毛細胞という受容体を刺激し電気信号に変換して蝸牛神経を通じて脳幹から大脳の聴覚領野に伝わって言語を認識します。このように脳内の聴覚が伝わる通り道を聴覚伝導路と呼びます。加齢性難聴は内耳の有毛細胞の減少により聴力を失ってきます。たいていはごくゆっくり進行するので初期は気づきません。まず他人が気付きその後、本人が気づくころには、たいていは中等度難聴になっていることが多いようです。現役を引退されている方はそれでも何とか生活ができるためにそのまま放置されることが多く見られます。聴覚伝導路に内耳からの信号が減少したままになるとどうなるでしょう。脳というのは恐ろしい性質があり使われない機能は排除する方向に働きます。聴覚伝導路が萎縮したり視覚などの他の機能を担当したりして、聴覚伝導路は排除するように働きます。するとどうなるか、ゆっくりと進行していた難聴がある年齢から急速にコミュニケーションが困難になってきます。「80歳半ばから急に悪くなった。」と言って来院されるケースが多いのですがこれを聞くとこちらは「あ~あ」とため息をつきたくなります。たいていは純音聴力は中途度難聴でとどまっているのに語音聴力が50%以下に低下していることが多いのです。こういう状態を難聴の脳と呼んでいます。我々も簡単な英文でもネイティブが言ったことはなかなか聞き取れません。そういう時は復唱したりディクテーション(文字起こし)をしてリスニング力をつけます。難聴の脳も補聴器を装用して日本語でそれをおこなえば機能の回復が望めます。これを聴覚リハビリテーションと呼んでいますが、他言語よりは簡単と言えども言語習得と大差ありません。若年者は難聴を放置しないので難聴の脳はほとんどが後期高齢者です。もちろん医学的には、手遅れではなく聴覚リハビリテーションにより機能回復は期待できるのですが、後期高齢者に復唱やディクテーションなどのモチベーションを保つことは極めて困難です。もちろんそれらを克服して、語音聴力40%代でしたが聴覚リハビリテーションの効果がでて90%代まで回復した例も経験しましたが珍しい例です。20%回復したらいい方で長時間装用がつらくてできないとか一人暮らしでほとんど会話がないとかでリハビリテーションが進まず回復が見られないケースもよく見られます。聴覚リハビリテーションの話をすると最初から補聴器装用をあきらめる方もかなりおられます。これは、本人の人生観にかかわる問題なので当方としても無理強いはできません。力及ばずです。
補聴器は万能ではありません
補聴器は、うまく活用できればコミュニケーション障害でやりたい仕事ができない、友人との交流ができない、人に誤解されるなど人それぞれの悩みを解消してくれる福音です。しかし、それにはその人に応じた障壁がありそれを乗り越えなければ達成できません。また、乗り越えられない場合があるのも事実です。このコラムを書いたのは、補聴器装用をあきらめてもらうためではなく、やる以上は覚悟を持って挑戦していただきたいからです。元の聞こえに戻らないからと言って落胆して終わりではなく、少しでも聞き取ってやろうと聴覚リハビリテーションに励んでいただきたいからです。
文責:原田

